「俺には俺の、やり方がある」
「ああ。彼には彼の、やり方があるからね」


ある集団に属していて、そこで求められている一定水準の能力に決定的に自分が満たないケエス、明らかに自分より能力が優れている他人の存在を無意識のウチに否定したいケエスに出遭うと、上の2種類の台詞には耐え難い甘美な誘惑を感じます。
それは視点を自分の立っているフィールドに無理矢理シフトすることで自我を守ろうとする、一種の自己防衛本能みたいなもの。
心理学用語で俗に云う、「甘い檸檬」と「酸っぱい葡萄」ですな(笑)。
自分自身に徹底的に閉じ篭るとか、他者を徹底的に排除するとか、それで一生を終われるのならばこれ以上楽なことは無いとは思うのですが、この社会で生きている以上、それは絶対に不可能なこと。
前人未踏の世界の果ての地で自給自足で生活すると云うなら、別ですが。「みかけ巨人」トー・トーさんみたいに(笑)。
社会生活に参加しているなら矢張り、それなりの覚悟を決めないといかんかな、と思うのですよ。
自分の意思でその集団に身を投じたのなら、尚更。
その集団で求められている一定の水準に達する努力をするとか、その集団で求められている一定水準以上の能力を持つ相手の存在を認めるとか。
……少なくとも、そこで求められているものは何なのか、考えるとか。

「貴方と私は、棲む世界が違うのよ」

そら個々の価値観だとか方法論だとか哲学だとか信念は、勿論あるだろうから、確かに自分自身の世界観は大切にするべきだしそれと同時に相手の世界観を尊重するべきなのは当然のこと。……だとは、思う。
けれども我々が棲んでいる世界なんて所詮、宇宙と云う壮大な空間の中のたった一つの地球と云う惑星の上に過ぎないじゃないか。
それで「棲む世界が違う」も何も無いだろうが。
人によって、持って生まれた才能や恵まれた環境や微妙な個人差はあるけど、元から周りより優秀な人は、予めスタートラインが前寄りに設定されているから、ちょっとだけ得なのかなあ。なんて多少羨ましくはあるけれども。
基本的な人間の作りには、それ程顕著な差は無いはず。とも思います。
空を飛べるとか垂直な壁面を歩けるとかえら呼吸できるんなら、人間としてかなりの特殊能力の持ち主だろうが(でもそんな能力、要らねえ・笑)。
……この世に、努力で補えないことなんて、無えよ。

自分にできる程度のことだったら、他人もできる。
他人ができる程度のことだったら、自分もできる。

「俺のやり方は、これでも良いのかな?」
「彼のやり方が、これより良いんじゃないかな?」
ちょっとそう意識することで、新しい世界が開けるかも知れないのに。
自分のやり方に矢鱈と固執したり、他人のやり方を闇雲に否定することで、自ら「限界」のラインを引いてしまうのは、勿体無いと思わないかい?
もっと自分の世界観を広げて、高くから、遠くから、巨視的に周囲の状況を見られる様になりたい。
そして自分の他人より劣っているとこも他人の自分より優れているとこも、素直に認めて改善する努力をしてみる姿勢が、自分自身の「限界」を自ら超えて行く原動力になるんじゃないかなあ。

……と、偶には真面目に自分自身を戒めたりもしてみます(笑)。
ヘコタレタトキニハ。


でも、自分自身への言い訳に、ついつい使っちゃうんだよね。

「俺には俺の、やり方がある」
「ああ。彼には彼の、やり方があるからね」

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